<テーマ> 自己浄化と反省
<シンボル> 翼のついた三角形
エリーズ1度から9度は、度数進行法と呼ばれている手法の原点となるものである。アングル、ノードを含むすべての惑星にこの度数進行法をプラスマイナスすると、現象を示す2度取りの在泊度数の変化とドラマが示されるが、エリーズの1度から9度はカリユガ期におけるどの人も同じような刷り込みを受けることを示す可能性があるのは興味深い。
たとえば1度は仏陀が言ったように、存在は苦であることになるし、2度は金銭や経済が生きるための主テーマになるという設定がうかが、事実その通りの現実がすべての人に用意されているという具合である。
しかし4度の愛情生活を経て、度数進行法では一応の知的達成と思わせるこの5度はやや謎めいている。前書『究極のサビアン占星学』では私は「天にはよろこびがあり、地には悲しみがある」と書いたがその思いは今も変わっていない。
なぜならこの度数ではあまりに浄化的なことを経験する人が多いからである。複雑なのはそれだけではない。サビアンシミュレーションをかけると、その人がどのような思考に到達するかが解明されるが、それは単なる当たるということより、すべての我々の思考は浄化であり処罰なのかという問いを投げかける。
それは一言でいうと分離存在の悲劇であるが、カリユガ期にはそのような個的思考力の優秀性は称賛される。しかしそれへの執着は意識の幻覚に騙されているだけで、どこかで厳しい厳しい雷鳴を受ける。個とは幻想そのものであるからだ。
その前提で霊的上昇を意味するとしか思えないこのシンボルのビジョンを思い浮かべると、言葉を失う思いである。
エリーズ6度
<テーマ> イメージの実現
<シンボル> 四角形の一辺が明るく照らされている
このシンボルに関しては『究極のサビアン占星学』の解釈を参照してほしいが、やや難解であるので追記しておこう。
前度数で、人はそれなりに自我思考を完成させ現実に立ち向かうことになるが、現されているのだろうか。人は分離強化である個性の確立をするしかないといっているのだろうか。その衝動は愛と野心に支えられる。
またこの度数の統合度数が家庭の幸福を示していることを考えると、せめてもの幸せは、三角が四角になることは人生を生きる苦痛となる。そのため人が追い込まれるのは、さらなる分離の強化である―とした場合、なぜここで「明るく照らされている」と、表仕事と家庭の安定と、ごく一般的な道をプラカードのように表示しているのか。
だがそれでは、なけなしの充足だ。それで生きるしかなかったのが今終わろうとしているカリユガと呼ばれる暗黒周期だったのだ。我々はサティアユガという四画すべてが照らされる時代に急速に向かっている。
その時が我々をつくった遺伝子操作の完成なのだ。このシンボルは途上の光か。それとも退行への警告か。
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